最近(2020年現在)、兵器マニア界でもソ連の兵器・銃器に関心が振られつつあるように思う。
冷戦時代は何となく西側兵器の話題が多く、東側兵器マニアが少ないように見えたのは、
政治問題と無関係だったわけではあるまい。
然し冷戦は終わりソ連も崩壊、Smartphoneを持つ人が増えネットへのハードルがどんどん低く
なりつつある今、ソ連は徐々に秘密のヴェールを脱ぎ去ろうとしている。
ヴェールが少しづつ捲れるたびに、そのエキゾチックな匂いの合理主義に我々は一喜一憂する
訳である。
前置きが駄文で長くなってしまったが、今回はヴェールの下から覗くソ連・ロシア
の自動小銃開発について綴る。
ロシアの自動小銃開発の切欠は二月革命以前、日露戦争に遡る。
戦争当時、補給の滞りにより「機関銃と塹壕による防衛戦術」をとった秋山支隊に対し、
有効な攻撃手段を持たなかったロシア帝国軍は多大な損害を被った。
ロシア軍が自動火器による洗礼を受けた戦いであった。
この経験によりロシア帝国内でも自動火器の研究開発が開始。
特に1906年からВладимир Григорьевич Фёдоров(ウラジーミル・グリゴーリエヴィチ・フョードロフ)
が開発を進めており1911年に従来のモシンナガンと同じ7.62×54mmRを使用する半自動小銃を開発。
然し試験を通してフョードロフは既存の小銃弾を連射すると反動が過大となりコントロールが
難しい事、起縁式実包は連射銃器には不向きな事に気づき諸外国の銃の小口径化を見習い、
新たに7mm、6.5mm、6mmの口径の試作弾